『四国西予ジオパーク応援隊』に参加して(午前の部、午後の部)
20年ほど前のこと。職場の友人が、初めて松山から汽車にのり南予に向かっているとき、川筋やトンネルばかりの景色が続いていたところ、突然広い場所に出た。この風景は一体何だ四国の南西部にこんな土地があるのか、調べたところ「宇和盆地」だった、この友人は、みかん農家の経営調査に向かっており、段々畑の風景をイメージしていたのであるが、目的地を間近にして大きい盆地に遭遇しびっくりしたと語った。
そこが市と市民の協力でジオパーク認定を目指し活動している四国西予ジオガイド養成講座の舞台であり、今回は主に宇和盆地に残る遺跡の見学、学習である。歴史的遺産が好きな私には、格好の機会である。
集合予定の公民館の場所が分からず出かけたが、ナビが発見してくれた。ガイド養成講座の皆さんも三々五々集まり、10時少し前30人程になった。
マイクロバスに乗り、まずは、チャートのがけと水路のある場所へ。チャートの地層は陸地から流失した土石が及ばない遥か遠くの海底で生息していた貝類が堆積してできた岩石で、硬い岩石の代名詞だそうだ。その地層(岩石)は2億年程前に生まれ、地殻変動等で四国の山中にやってきて大きな岩となって鎮座している。周辺を見ると水路や家の土台はこの石を組み、積み上げて造られている。宇和盆地の人々の暮らしは、太古のそれもはるか遠くの太平洋か南方で生まれた岩石に支えられている、このロマン!
次いで、集落から少し山の斜面を上がったナルタキ古墳1、2号に行った。6世紀末から7世紀に造られ、古墳が爆発的に増えた時期とのこと(ちなみに、120程確認とのこと)。横穴式で家族乃至一族が利用したそうです。
見学後、宇和から八幡浜に向かう笠置街道を登り、峠の傍の山頂を利用した笠置峠古墳を訪ねた。
笠置街道には往来の無事を祈願した地蔵があり、近年まで峠茶屋もあったそうである。子孫が今も地蔵とその一角の清掃を行い、地域の人と共に大事にしていると聞き、歴史の流れ人の有り様を考えた。街道の路べには海を渡り四国88か所の巡礼に来て、半ば倒れた人の墓もある。また、シーボルトの娘お稲さんが宇和の先駆者二宮敬介を訪れ医学、科学一般を学んだ際、この峠道を歩いたことも知った。これもロマン!
笠置峠古墳は前方後円墳。西南四国で最大かつ4世紀初めに造られ時代的にも最も古い古墳とのことであった。古墳に立つと宇和盆地は
もとより、北には瀬戸内海の向こうに中国地方の陸地、西には宇和海の向こうに九州が見える。一族の古墳でなく、この地方を支配した個人の古墳。宇和盆地だけでなく、瀬戸内海、宇和海を越えて中国も九州も俯瞰できる巨大な古墳。発掘調査から葬られた人と時代は分かったが、どんな暮らしをしていた人たちが、どのようにして、なぜ、ここにこれを造ったのか。それも、ロマン!
地球では不断に新しいジオ(大地、地層)が生まれている。今の動植物や人はジオに比べれば瞬間的な出現であるが、ジオの恵みをしっかり活用して生れ、生きていると想像できる楽しい旅でした。
西予ジオパーク推進室の皆さん、参加者の皆さん有難うございました。
『Uターン賛歌者』