『見えないものに対する敬謙さを追って城外西方・大洲街道へ』
古より、民間伝承により今日に伝わる「お城を守るお地蔵さん」。
伝承が始まったとする「時代」の捉え方は様々。また、建てられた「場所」は、お城の東西南北、街道筋、お城下とその外(村)との境が多いとのこと。
時代と共に変化していく中に在って、変わらないものを探して ― 。
時は平成二十三年十月十五日(日)午前九時三十分、かつての武家屋敷中央辺りに集合した老若男女、総勢15名。コーディネーターの森さんからご挨拶と、ガイドの小宮さんの紹介。
戦国武将、近世武将のロマンを右手に見 “ぶらあるき”で、タイムスリップの始まりです。
先ずは、かつての北の入り口御門跡を抜け、木屋町地割と正面役所の変遷を聞く。
西に折れ「札の辻」に、ここは松山から全国主要地への道程の起点ともなった所。
当時、江戸日本橋までの距離が公称され、札の辻を起点に五街道も延びていたのだと云う。
現在の本町通りを渡り、北に阿沼美神社を見て、南下し雲祥寺へ。
この界隈は、お寺が多く、雲祥寺もその一つ。このお寺は、加藤嘉明が松山城に移り住んだ際、そこ(現・萬翠荘)にあったものをこちらに移したという。更に下り、一本東、茅町(現・萱町)通りに。松山城創建当時より、武家屋敷に隣接して町人町を置いた町屋の様子を、今もうかがい知る事が出来る。続いて、満行寺、最広寺(坂東玉三郎の墓石在り)へ寄り、土橋へ。
土橋の名残り、コンクリート橋が架かる中の川は、西へ延び、北に向きを変え、三津の宮前川に合流するんだとか。通り向うの長正寺を尋ねる。ここから、東の市駅へと向かう。
市駅の手前南側に水路。この水路、川を南へと付け替え、天然の外濠(現・石手川)とした際、水流を内に引き、水を確保したもの … 、すぐ側のお寺に五体(大体は六体らしい)のお地蔵さんを見つける。市駅を通過し、日切り地蔵尊(お日切りさん)へ。
「お日切りさん」は、庶民の悲願を叶えるという。また、『夏まつりの最後を飾り、境内の茶店にあった名物のまんじゅう「日切り焼き」は、根強い人気がある。』のだそうだ。正面まつちか入口から、江戸中期以降、商家が立地し始めた永町(現・湊町 銀天街)へ入り、円光寺へ。
銀天街を通り、一筋北の路地へ移動し、湊町四丁目へ向う。付き当りの正安寺は、通り手前、北へ移動。正安寺はの『「四方固めの地蔵尊」は、今も一体が本堂南に鎮座する。』七体のお地蔵さん在り。ここで解散となった。
今回、街の喧騒を離れ、ぶらり歩いてみると、時代の輪郭が “見えてくる”そんな思いを持ちました。ならば、当時の地割・街並みから現在への変遷を地図で重複させながら「まち歩き」をして複数の時代を旅してみるのも、おつなものではないでしょうか ― 。
別の方角も“ぶらあるき”して、お城の周辺を知りたいと思いました。どうもありがとうございました。
【報告 北村】